詩篇20篇
指揮者のために。ダビデの賛歌。
20:1 苦難の日に主があなたにお答えになりますように。ヤコブの神の御名があなたを高く上げますように。
「あなた」は、最後に記されているように王のことです。しかし、初めはそのことが伏せられていて、「あなた」と呼びかけられる一人の人として描かれています。
主が苦難の日に「あなた」に応えますようにとの祈りになってます。彼を高く上げるのは、ヤコブの神の御名です。ヤコブの神と表現することで、弱い、すなわち、肉をもつ人としてのヤコブに応えられる神が、「あなた」にも応えてくださり、高く挙げられるように祈っています。
なお、この王は、次の二十一篇でも歌われていて、王としてのキリストの比喩になっています。そして、特に人としての歩みに注目して取り上げられています。
十九篇では、主の御言葉の尊さが歌われています。そして、この詩では、それに従う人としてのイエス様が比喩として描かれています。
20:2 主が聖所からあなたに助けを送りシオンからあなたを支えられますように。
主が、「あなた」に聖所から助けを送られるようにと求めました。聖所は、神の臨在の場所です。シオンも神の選びの町です。実在し、臨在される神が助けられるのです。
ここで、助けが天からではなく、聖所からのものとして記されているのは、主は、地上で歩みをする「あなた」に臨在し、共におられ、助けられることを表しています。
20:3 あなたの穀物のささげ物をすべて心に留めあなたの全焼のささげ物を受け入れてくださいますように。セラ
穀物の捧げ物を全て心に留めてくださることを願いました。心に留めることは、価値あるものとしてご覧になることを表しています。
全焼の捧げ物は、彼の代わりに受け入れられるように捧げますが、彼自身を捧げるものとして主に捧げるのです。神に受け入れられる生きた供え物とて捧げることの比喩です。
ローマ
12:1 ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。
12:2 この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。
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主イエス様に関して、穀物の捧げ物は、主イエス様御自身の比喩です。穀物の捧げ物は、人としてのきよい歩みを表しています。また、穀粒の場合、よみがえりと関連付けられていて、よみがえった者としての歩みすなわち肉に対して死に新しくよみがえった者として、肉にはよらない聖霊による歩みの比喩です。そして、いずれも、油が注がれたように、聖霊に満たされた歩みを表しています。父は、それを芳しい香りとして受け入れられたのです。
また、全焼の捧げ物は、全てを捧げることを表していますが、主イエス様は、父に全てを捧げ、芳しい香りを捧げられました。
20:4 あなたの心の望みを主がかなえてくださいますように。あなたのすべての計画を遂げさせてくださいますように。
「心の望み」は、意訳で、「心」です。「あなた」の心に何があったでしょうか。神の御心に適うことです。彼は、神の言葉を心に蓄え、たましいは、それに従って歩もうとしていました。彼が肉的な思いや、世のものを求める思いの中にあったことはありません。そのことは、次節から、心にあることを主が叶える結果ととして、御名により旗を高く掲げることになります。彼の心にあったことは、主の御心の実現です。御名の栄光が現されることです。
「計画」と訳されている語は、「助言、目的、謀など」です。自らの考えということではなく、主に委ねられた目的すなわち御心です。神の御心に適ったこと以外を彼が計画し、成し遂げようとしていたことはありません。
このように、「あなた」の心の中には、神の御心があり、神の御心の実現の思いがあったのです。それを成し遂げさせてくださいと祈っています。
主イエス様の心は、父と一つでした。父の御心だけを求め、行われたのです。
それを成し遂げさせてくださるのは、主です。
20:5 私たちはあなたの勝利を喜び歌い私たちの神の御名により旗を高く掲げます。あなたの願いのすべてを主が遂げさせてくださいますように。
「あなたの勝利を喜び歌い」は、直訳では、「あなたの救いのうちに喜び」となります。「喜び」は、一人称複数の動詞で、訳のように「私たち」と主語を補うことができます。これは、「あなた」以外の民ということになります。六節にも「救ってくださる」と、救いについて記されています。主が「あなた」を救うことを喜びとするのです。
その時、主の御名により旗を高く掲げます。この旗は、旗印あるいは、軍隊の旗です。旗は、救いに対してあげられます。そして、旗は、主の御名によってあげられます。ですから、「救いは主による」という御名を表すものとして掲げるのです。続く後半のことから、「あなた」が業をなすにあたって、妨げる者からの救いであることが分かります。
また、「あなた」の願いは、主の御心の実現による栄光の現れです。その全てを成し遂げさせてくださるのは、主です。
20:6 今私は知る。主が主に油注がれた者を救ってくださることを。右の御手の救いの御力をもって聖なる天からその者に答えてくださることを。
この節は、この方すなわち「あなた」の言い表しになっています。彼は、主が主に油注がれた者を救ってくださることを今知りました。主が選び立てられた者を主が救ってくださり、その目的を果たさせてくださるのです。
主の力は、右の御手の救いの力です。神様の力強い御手によって救われることが表現されています。さらにその発動の起点は、聖なる天です。この世とは分離して、神の主権による発動なのです。その力を妨げることのできるものはないのです。ここでは、二節の「聖所」ではなく、天です。これは、力の偉大さを表すためです。
20:7 ある者は戦車をある者は馬を求める。しかし私たちは私たちの神主の御名を呼び求める。
人は、戦車や馬を求めます。しかし、主の御名は、遥かに力強いのです。ですから、「私たち」は、自分たちが従う神の御名を呼び求めるのです。
20:8 彼らは膝をつき倒れた。しかし私たちはまっすぐに立ち上がった。
実際、この世の力を頼った者たちは、膝を付き倒れたのです。しかし、主の名を呼んだ者は、まっすぐに立ち上がりました。その違いは明らかです。これは、王に呼びかける者の経験です。彼らは、主によって堅く立つことができたのです。
20:9 主よ王をお救いください。私たちが呼ぶときに答えてください。
それで、主に頼る者として王を救ってくださるように願いました。呼ぶときに答えてくださるように願ったのです。
王は、キリストの比喩です。今日、イエス様を王として、御民は仕えています。神の御心の実現のためのイエス様の業は、主によって守られ、救われて、必ず実現するのです。この世のいかなるものの妨げも力がないのです。
※この詩は、人としてのイエス様の歩みです。王であることは、最後に一度だけ記されていて、これが主イエス様を表すことがわかるようにしてあります。